2008年5月14日水曜日

グレン・グールド

グレン・グールド(Glenn Herbert Gould, 1932年9月25日 - 1982年10月4日)は、カナダのピアニスト。バッハの演奏において名高く、20世紀を代表する表現者の一人である。

1932年9月25日、トロントに生まれる。母親は、声楽の教師であった。旧姓名は、グレン・ゴールド(Glen Gold)。プロテスタントの家系だが、ゴールドという苗字がユダヤ人に多く、当時高まっていた反ユダヤ主義に巻き込まれることを恐れて、グレンの生後まもなく一家はグールドと改姓した。母方を通じてノルウェーの作曲家グリーグの親類にあたるといわれている(ただし、その証拠となるようなものはないらしい)。

母親からピアノの手ほどきを受けたのち、1940年に7歳にしてトロント王立音楽院に合格。同院で、レオ・スミスより音楽理論を、フレデリック・シルベスターよりオルガンを、アルベルト・ゲレーロよりピアノを習う。1944年、地元トロントでのピアノ演奏のコンペティションで優勝。1945年にオルガン奏者としてデビュー。同年には、カナダ放送協会によりグールドのピアノ演奏が初のオンエア。1946年5月、、トロント交響楽団と共演しピアニストとして国内デビュー、同年10月、トロント王立音楽院を最年少で最優秀の成績で卒業。その後、1952年にはシムコウ湖畔にある両親の別荘に引きこもった。

1955年1月、ワシントンおよびニューヨークで公演。ワシントン・ポスト誌に「いかなる時代にも彼のようなピアニストを知らない」という有名な評が掲載され、コロムビア・レコードが生涯専属契約を申し出る。

同年、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」を録音。同作は、1956年に初のアルバムとして発表されるや、ルイ・アームストロングの新譜を抑えてチャート1位を獲得し、その後もベストセラーとなった。同作は、ハロルド・C・ショーンバーグのような大御所批評家からも絶賛され、ヴォーグ誌やザ・ニューヨーカー誌といった高級誌もグールドを賞賛した。その後、メディアは、そのアイドル的容貌と奇抜な性癖を喧伝し、グールドは一躍ときの人となっていった。

1957年には、ロシア及びヨーロッパへの演奏旅行に赴く。第2次大戦以降において旧ソ連へ演奏旅行に赴いた北米初のピアニストとなったグールドは、口コミで瞬く間に演奏会場が満員になり、「バッハの再来」と賞賛を浴びるなど、その演奏により鉄のカーテンの向こうでもセンセーショナルを起こし、演奏方法・解釈、新たな作曲家の認知など、その後のロシア音楽界に多大な影響を及ぼした。その衝撃・影響力・演奏の素晴らしさは、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチら当時の最高峰の音楽家達によっても証言されている。

その後、ヨーロッパでは、ヘルベルト・フォン・カラヤン、レオポルド・ストコフスキーらとも共演。1959年には、ザルツブルク音楽祭にも出演した。北米と異なり伝統的で保守的な風潮のあるこれらの国々でも大絶賛を受けたグールドは、世界的なピアニストとしての地位を確立した。

1960年、スタインウェイ社の技術者により肩に傷害を受けたとして、同社を告訴する。その後、スタインウェイ社は賠償金を支払った。


かねてより、演奏の一回性へ疑問を呈し、演奏者と聴衆の平等な関係に志向して、演奏会からの引退を宣言していたグールドは、1964年3月28日のシカゴ・リサイタル[1]を最後にコンサート活動からは一切手を引いた。これ以降、没年までレコード録音及びラジオ、テレビなどの放送媒体のみを音楽活動の場とする。同年には、トロント大学法学部より、名誉博士号を授与された。

1965年、カナダ最北端の地チャーチルまで旅行する。1967年、カナダ放送協会が、グールドの製作したラジオドキュメンタリー「北の理念」を放送する。その後も、「遅れてきた者たち」、「大地の静かな人々」といったラジオドキュメンタリーが放送された。1977年、グールド演奏によるバッハの「平均律」第2巻 前奏曲とフーガ第1番ハ長調の録音が、地球外知的生命体への人類の文化的傑作として宇宙船ボイジャー1号・2号に搭載される。

1981年、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」を再録音する。しかし、誤解されがちであるが、彼の最後の録音はゴルトベルクではなく、1982年のブラームス「4つのバラード」「2つのラプソディ」であった。同年10月4日、脳卒中により死去。50歳没。



グールドは、一般的なクラシックのピアニストとは一風異なるレパートリーの持ち主であった。


バッハに対する傾倒
デビュー以来、グールドは、活動の基盤を、バッハにおいていた。その傾倒ぶりは、彼のバッハ作品の録音の多さはもとより、彼の著述からもうかがい知ることができる。グールドのデビュー当時、バッハの作品は禁欲的な音楽であると考えられており、ヴィルトオーソ的な派手なパフォーマンスには不向きで聴衆にアピールするのは困難であった上、その鍵盤曲はチェンバロによって演奏すべきとの考えが支配的であった。こういった事情により多くのピアニストがバッハの演奏を避けていたなか、グールドは、デビュー作「ゴルトベルク変奏曲」の録音において、旧来のチェンバロ演奏と異なる軽やかで躍動感あふれる演奏を、より音色豊かなピアノにより実現した。その後も、教材と見られがちであったインヴェンションとシンフォニアを録音して、高度な芸術作品として再認識させるなど、バッハ演奏について多くの業績を残したグールドは、スヴャトスラフ・リヒテルが「バッハの最も偉大な演奏者」とよんだように、バッハ演奏の大家としての名を不動のものとしていった。


モーツァルト・ベートーヴェンへの懐疑
バッハの演奏解釈は最初驚きをもって迎えられつつも、高い評価とともに後の演奏家に絶大な影響を及ぼすようになったのに対して、現在においても評価が分かれているのがモーツァルトやベートーヴェンなどの演奏である。その極端に速かったり遅かったりするテンポ設定や分散和音の多用、逆アルペジオなどの独創的解釈は、高く評価する人々がいる反面、まったくの拒否反応を示す人々が一方にいるといった毀誉褒貶の激しいものである。モーツァルト演奏家として名高いクラウスは、グールドのモーツァルトを聞いた際「あれだけの才能を持っているのだから普通に弾けばよいのに。」ともらしたと伝えられている。


ロマン派への好悪
ロマン派の作曲家についてグールドはかなりはっきりと好悪の見解を示した。 いわゆる前期ロマン派に関してはピアノ音楽を除くメンデルスゾーンとブラームス以外は極端に否定的な見解を何度となく述べている。これを反映してブラームスの録音はある程度残されているが、それ以外の前期ロマン派の作曲家については正規録音としてはジュリアード弦楽四重奏団とのシューマンのピアノ四重奏曲Op.47のみである[2]。

それに対して新ドイツ楽派、後期ロマン派の作曲家については、グールドはリストを別にすれば、おおむね好意的な評価をしており、特にワーグナー、リヒャルト・シュトラウス、シベリウスはグールドのお気に入りの作曲家であった。ただこの一群は主要なといえるピアノ作品をほとんど残していないこともあり、グールドはワーグナーで行ったように自身でピアノ用に編曲して録音を残したり、そうでなければややマイナーといえる部類のピアノ曲を残すことになった。


新ウィーン楽派への評価
20世紀の音楽も積極的に取り上げたグールドであったが、特にシェーンベルクに対する評価は極めて高く、演奏頻度、著作などでの言及も多い。一般にシェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンの新ウィーン楽派は一まとめにして議論されることが多いが、グールドはこの内ベルクに関しては録音の残されているピアノソナタOp.1を除けば総じて評価は低かったようだ。



ピアノという楽器の中で完結するようなピアニズムを嫌悪し、自分は「ピアニストではなく音楽家かピアノで表現する作曲家だ」と主張したグールドであったが、第1の業績が斬新で完成度の高いそのピアノ演奏であることは異論のないところである。



対位法信仰
グールドは、ピアノはホモフォニーの楽器ではなく対位法的楽器であるという持論を持っており、ピアノ演奏においては対位法を重視した。事実、グールドのピアノ演奏は、各声部が明瞭で、一つ一つの音は明晰であり、多くはペダルをほとんど踏まない特徴的なノン・レガート奏法であった。また、多くのピアニストと異なり和声よりも対位法を重視し、音色の興味に訴えるよりも音楽の構造から生み出される美を問うたことから、ショパンではなくバッハを愛好し、その興味はカノンやフーガにあって、その演奏の音色はほぼ単色でリズムを重視、その奏法は左手を伴奏として使う他の多くのピアニストと異なり、左手のみならず全ての指に独立性を持たせていた。この個性的な演奏法について、グールド自身は、オルガン奏法のリズムによる呼吸法やロザリン・テューレック の演奏の影響を受けていると語っており、その優れた指の独立については、グールドが左利きであったこととの関連性も指摘されている。 知的な音楽家といわれるグールドであるが、この対位法に対するこだわりについては頑迷であり、どのような音楽に対しても対位法を通してしかアプローチを行おうとしなかった。晩年にいたるほど、対位法信仰は深くなり、レパートリーの選択、楽曲の解釈、演奏時のテンポ、リズム、タッチ、装飾、ペダリング、録音方法にいたるまで、より対位法を際立たせる手法が用いられていった。また、グールドは、こういった自身の趣向に合う音楽を作り出すために自身のスタインウェイ製のピアノに対してそのタッチを軽くするなどの改造していたこともあり、晩年には、中古のヤマハのピアノも使用していた。


低い姿勢とハミング
グールドは、異様に低い椅子(父親に依頼して作ってもらった特製の折りたたみ椅子で、いつもこれを持ち込んでいた)に座り極端に猫背で前のめりの姿勢になり、時に大きな手振りでリズムを取るといった特異な奏法と斬新な演奏で世間の注目を集めた。坂本龍一は、この伝統的には正しくない姿勢について、上半身の力が過度にかからず、音が非常に清潔でクリアになっていると指摘している。伝統的な「正しい姿勢」による奏法は、強大なフォルテを生み出すと同時に、一つ一つの音の精度を下げているという考え方である。グールド自身も、自身の奏法について、ほとんどの点において有利であるが、「本当のフォルテが出せない」と分析していた。演奏時にはスタジオ内録音の際でも常にメロディーや主題の一部を歌いながら演奏するため、一聴しただけでグールドの「鼻歌」が聞こえ、彼の演奏と分かることが多い。レコーディングエンジニア等が再三注意し止めさせようとしたにも関わらず、グールドは黙ってピアノを弾くことはできないとして生涯この癖が直ることは無かった。しかしこの歌声によって現在弾いている曲の隠れた旋律や主題を分かりやすく聞くことができる。その点で指揮者ニコラウス・アーノンクールに類似するという指摘もある。また、歌っていることにより、旋律がなめらかに聞こえるという者もある。なお、猫背でかがみこむような奏法や指の独立には、その師であるゲレーロの「フィンガー・タッピング技法」の影響も指摘されている。


大胆な解釈
グールドは、作曲者のように演奏をしている。演奏にあたっては、楽譜が指定したテンポ、強弱、アーティキュレーション、装飾記号などを勝手に変更したり、分散和音の一部を強調して繋いで新たな声部を作ったりした。また、和音を分散和音にしたり、当時のピアノ演奏の慣習になかった上方から下方へのアルペジオ、いわゆる逆アルペジオを大胆に使ったことでも有名であった。とりわけ、ゴルトベルク変奏曲の主題アリア第11小節の逆アルペジオは反響が大きく、その後、多くのピアニストが倣うようになった。モーツァルトの演奏においては、装飾記号の無視がはなはだしく、モーツァルトの装飾性を軽蔑していたという。さらに、グールドは、意図的に反復記号を無視して演奏するため、当時リヒテル等から批判されていた。


パルスの継続
グールドは、パルスの継続という独自の演奏法を志向した。ここでのパルスとは、リズムの一定の基準のことであり、パルスの継続とは、楽曲全体をこのパルスによって束ねたうえで、即興的あるいは感情的なリズムの変化やルバートを排することである。ただし、これはリズムの硬直化やアゴーギクの排除を意味するものではなく、基本的なパルスを設定して、それを分割したり、倍加させることは可能である。グールドは、リズムの硬直化に対して懸念さえ表明しており、この点においてロックミュージックやミニマリズムに対して否定的であった。さらに、一部の楽曲では各楽章を通して可能な限りテンポを統一しようとする試みも行っており(その一例が後述のバーンスタインと意見を異にしたブラームスの協奏曲1番である)、この点もまたパルスの継続への志向の一つと考えることもできよう。こういった演奏姿勢は、コンサートをドロップ・アウトしたことともあいまって、評論家の間では、伝統破壊であるとか、アンチ・ヴィルトオーソ的であるなどと評されたが、グールドの晩年には、パルスの継続への志向が功を奏し、音楽全体の統一感がより顕著になり高く評価されるようになった。


演奏会への不信
グールドは、そのデビュー以来、たびたび演奏会への疑問を語ってきた。グールドは、この点について大変に雄弁であり、多くの括目すべきとされる論拠を挙げている。第1は、演奏会の不毛性・不道徳性であり、グールドによれば、演奏会での聴衆は言ってみれば「血に飢えて」おり、演奏者は失敗を畏れて志を失い、ひいては「寄席芸人に身を落としてしまう」という。また、演奏会特有の競争性にも否定的で、「演奏行為は競争ではなく情事である」とも語っている。また、演奏会では、演奏者と聴衆は平等な関係を失っているという。第2には、ライブ演奏の一回性への疑問であり、それを「ノン・テイク・ツーネス」とよび、録音技術の登場によりライブコンサートはその意義を失ったとまで説いた。結局グールドは、コンサート・ドロップアウト後は、どんなに頼まれても演奏会で演奏することはなかった。現在では、コンサートドロップアウトには、後述するグールドの繊細で完ぺき主義な性格や飛行機嫌いも大きな要因であったといわれている。グールドが若い頃の音楽界は、依然として燕尾服を纏い、演奏会で観客を圧倒するパフォーマンスをみせることが優れた演奏家の当然の条件のように思われていたため、グールドの姿勢には、批判の声も多かった。


電子メディアへの情熱
演奏会を否定したグールドは、演奏会の不謬性から解放された存在として電子メディアをとりあげ、最終的には演奏会否定論とは別次元でそれを積極的に評価し、自身の主張を実践していった。その第1は録音である。グールドによれば、かつて西洋音楽界では、聴き手もまた音楽を嗜んでおり、音楽家と聴衆の平等な関係が成立していた。しかし、ヴィルトオーソ的な技術屋の存在と演奏会がその関係を壊してしまった。新しいメディアたる録音は、聴衆を音楽に関与させる力を持ち、両者の平等な関係を回復させるという。録音には、自身の満足できる芸術を創ることができるという長所も見出したグールドは、自身が気に入るテイクを得られるまで何度でも録音をし直し、気に入ったテイク同士を自身で接続したこともあったと語っている。グールドは、録音を映画に喩え、テイクを切り貼りするのは、より良い作品を創るための正当な行為と捉えていた。また、録音行為はグールド個人にとっても心地のよいものであったらしく、スタジオを子宮に喩え、マイクロフォンは自身と敵対することはないとも語っている。録音方法も一風変わったものがあり、例えば、バッハのフーガの技法をパイプオルガンで録音した際には、空気の抜ける音を拾い上げる変わった録音方法を採っている。グールドの作品は、4度グラミー賞を受賞している。第2には、テレビやラジオの活用であり、コンサート・ドロップアウト以降も人々はテレビにおいてはグールドの演奏する姿を見ることができた。グールドは音楽について聴衆を啓蒙する番組も作成した。


芸術家グールド
グールドは、「音楽におけるある種のルネッサンス的人間」と称し、エッセイスト、ドキュメンタリー製作者など、多彩な文化人として振舞った。グールドは、アーティストという存在について、岩山に群がり常に頂上を目指そうとする猿のようで、視野が狭く客観的尺度で物を見ることができないと指摘、アーティストとしての価値は対象としている世界から隔絶していることだと主張し、外交官、放送関係の人間、自由な思想のジャーナリストといった俯瞰的なものの見方が出来る人々に関心を抱いた。


思想家・批評家としてのグールド
グールドの数多い著述は、ときに思想的であり、とりわけ芸術と道徳に関してはグールドは雄弁であった。「芸術の目的は、瞬間的なアドレナリンの解放ではなく、むしろ、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することにある」という言葉は特に有名である。マーシャル・マクルーハンに影響を受けたメディア論も有名で、マクルーハンの名を挙げて多くのメディア論を展開している。音楽そのものについては、シェーンベルクに関する論考が大変多いことも知られている。グールドは、作品に対する批評としてのピアノ演奏を数多く行っている。その演奏姿勢は、演奏は作曲者に対する敬意なくして価値を持たないと考える保守的な聴衆から多くの批判を受けている。また、現在、グールドの演奏・著述などから、その音楽思想について多くの論考がされており、グールドの音楽思想を音楽における一種の構造主義と捉える向きもある。

ドキュメンタリー製作・メディア活動
グールドは、ラジオドキュメンタリーを製作している。特に有名なものが「北の理念」「遅れてきた者たち」「大地の静かな人々」の通称「孤独三部作」であり、グールドの北への憧憬、カナダ北部の辺境で生活して隔絶を体験することで人生を豊かにした人々への賞賛がこめられた内容となっている。ここでは、グールド自身が採集してきた複数のインタビューを、発言の意味や韻を考慮して、ポリフォニックに構成し直すというアイデアが使われており、対位法的ラジオとも呼ばれている。グールドは、テレビ番組の制作にも多くかかわっている。ここでは、グールドの変装(とりわけカールハインツ・シュトックハウゼンの物真似は有名である)や皮肉交じりのコメントなど、グールドの知的でエキセントリックな側面を垣間見ることができる。

作曲家志望・指揮活動
グールドは、幼少より作曲をし、また、彼に関する著作やインタビュー等からも早々にピアニストとしてのキャリアに終止符を打ち、作曲家になることを表明していた。しかし、グールドは自分の作品をブラームスあるいはシェーンベルクの焼き直しだとして、個性的な作品にならないことに憂慮を持っていたようだ。現実には、少なくない数の作曲を手がけていたにもかかわらず、(最後の1ページを残して)その大部分が未完成のまま放置された。その結果、生涯を通じてシリアスな音楽として世に問われたのは「弦楽四重奏曲」Op.1だけである。それ以外の発表されたグールドの作品は、協奏曲のカデンツァ、あるいはやや冗談音楽の部類に属する音楽であり、結局のところ彼は作曲家として大成はしなかった。なお、彼のラジオドキュメンタリーの一部作品を彼の作曲行為だとみなす見解もある。指揮活動にも興味を示したが、比較的若い時期の一時期と最晩年の活動のみで、大成するに至らなかった。


グールドの性格
グールドには、一般的に人嫌いで孤独な隠遁者のイメージがある。グールドは、自らの私生活を隠す傾向にあり、そのプライベートの姿は一般にはあまり知られていなかった。その死後、書簡などからユーモラスで人懐っこい側面や多感な親交があったことがあきらかになった。

最後のピューリタン
グールドは、最後の清教徒と称し、「大衆が嫌い」であると公言、極度の潔癖症で他人との接触を嫌うことが多く、握手するのを嫌がることすらあった。デビュー間もない頃のロシア公演でも、晩餐会等への出席を拒絶した。グールドは、自閉症あるいはアスペルガー症候群ではないかとも指摘されている。もっとも、グールドは、当時の新技術として浮上してきたメディアの価値は認めており、むしろ積極的にメディアへ露出していった。写真を撮られることも苦とは感じていなかったようで、多くの写真が残されているおり、音楽性のみならず性格的にもグールドにはナルシスティックな一面があったともいわれている。また、グールドには、成人後も幼稚で自己中心的な部分があったといわれており、スタインウェイ社との訴訟もこの性格が原因であるといわれている。なお、グールドは、生涯、結婚はしていない。

親交
グールドには、一時期において恋人がいたこと、生涯を通して従姉妹にあたる女性と親交があったこと、深夜に親しく長電話をする友人がいたことなど、決して完全な孤独者ではなかったことがわかっている。また、ユーディ・メニューインなどの共演者からの評判も良かった。リヒテルとは、グールドのロシア公演での出会い以来、親交を築き、その後も文通をしていたという。アルトゥール・ルービンシュタインとも生涯を通して仲が良かった。また、グールドは、動物をとても愛したことが知られており、愛犬への手紙も多数残されている。グールドの死後、その遺産の半分は、動物愛護協会に寄付されている。


グールドの功績
グールドの最大の功績は、バッハ演奏における新たな演奏スタイルや解釈を世に示し、それに対応した確固たる到達点を構築したことであるといわれている。バッハ以外の作曲家についても、そのアプローチの仕方に一石を投じて以降の音楽家に影響を与えたり、その録音を愛する多くのリスナーを生んでいる。また、アーティストと聴衆やメディアとの新たな関係性を提示したことも功績に数えられている。

広いファン層
グールドの活動・作品は、クラシックの伝統上は多くの意味においてスタンダードとはいえなかったが、反面、その類まれなるテクニックに裏打ちされた声部の弾き分け、躍動するリズム感、グールド特有の叙情性は、多くの人を魅了し、クラシック音楽の愛好家に限られず、幅広いファンを獲得してきている。クラシック音楽のオールタイムベストには必ずといっていいほどグールドの作品が名を連ねている。アストル・ピアソラのような他ジャンルの音楽家やエドワード・W・サイードやロラン・バルト[5]のような現代思想の専門家にもファンが多いのも特徴的である。また、ヴァレリー・アファナシエフ、ファジル・サイなど、多くの音楽家に影響を与え、敬意を受けている。

オマージュ
グールドの死後、カナダにおいてグレン・グールド賞が創設され、メニューインや日本人作曲家武満徹等がこれを受賞している。また、ドミトリー・シトコヴェツキーは、グールドの演奏にインスパイアされて、ゴルトベルク変奏曲を弦楽三重奏に編曲して、グールドに捧げている。さらに、グールドの1955年のゴルトベルク変奏曲の録音を、最新のテクノロジーで再創造する試みも行われており、グールドの録音は一種の楽譜として評価されている。


アイドル視
グールドは、1955年のゴルトベルク変奏曲のレコード発売時のプロモーション以来、その端正で美しい容貌でアイドル視されていた。実際、若い頃のグールドは、後述のバーンスタインが、「グールドより美しいものを見たことがない」と述べたように、天使のような美少年であった。そして、特異なファッションや奇抜な逸話が、さらにその人気に拍車をかけた。たとえば、彼は真夏でもコートを着て、ハンチングの帽子をかぶり、手袋をして人前に現れた。食べ物、飲み物に異常にこだわり、どこへ行くにもミネラル・ウォーターを持参し、絶対に水道水を直接に飲まなかった。普段はビスケットを少量とフルーツジュース、サプリメントなどしか取らなかった。演奏前には、湯に30分近く手をつけて温め、一部の楽曲は、足を組んで演奏していたといった具合である。



他の演奏者とのトラブル
グールドは、その演奏時、父親が作った椅子以外には座らないといったこだわりをもっていたり、前述したハミングを演奏中に行ったり、演奏中に指揮したりする癖があることなどから、以下のように指揮者等とトラブルが絶えなかった。

1962年、カーネギー・ホールでの定期演奏会において演奏予定のブラームスの協奏曲第1番のテンポについて、レナード・バーンスタインと論争になり、「who is the boss? solist or conductor.」といった記事が新聞に掲載されるなどの騒動となった。結果、バーンスタイン自身が、演奏会の前に、グールドの解釈には自分は反対であるむねを表明してから演奏をはじめるといった前代未聞の事態になり、前述のショーンバーグからも批判された。もっとも、バーンスタインは、グールドの才能は高く買っており、「彼の紡ぐ音は、常に新鮮で間違いがない」と評価しており、グールドと個人的な親交もあった。

オーケストラと共演中にも空いた手で大きく手を振るため、正指揮者がいるにも関わらずオーケストラを指揮しようとしているように見え、カラヤンに「君はピアノより指揮台がお似合いだ!」と皮肉を言われる。

ジョージ・セル、クリーブランド管弦楽団のコンサートに出演した際、そのリハーサルにおいて、三十分間ずっと自身の座る椅子の高さの調整をしたため、堪え切れなくなったセルの怒りを買ったという有名なエピソードがある。しかしこの話は、ジョナサン・スコットのグレン・グールドとの対話でグールド自身によって否定されている。グールドによると音楽上の若干の齟齬はあったものの、恙無くリハーサル、本番とも行われた。語られているようなことは何も起こっておらず、不思議に思ってこの話を掲載したTIMES誌に問い合わせてみると、驚いたことにこのデマの出所はセル自身であったという事である。むしろこの両者はお互いの音楽性を認め合っており、セルは自分自身が振ることはなかったが、その後もクリーブランド管のソリストとしてグールドを招き入れ、グールドの方もセルのレコードが音楽の内容の良さに対してあまり売り上げが芳しくないことを指摘していた。

朝比奈隆は、イタリアでグールドと共演した際に、グールドがリハーサルに欠席したことなどに立腹気味であったものの、いざ演奏(グールド自身が選曲したベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番)が始まると、楽団員とともにグールドの演奏に衝撃を受けたという。

グールドは、左利きであったため、活動初期にオーケストラの指揮を行なった際に当時は左利きの指揮者が珍しく、手の振りが右利きの場合と比べて左右逆になるため戸惑った楽団員もいたという。
 
グールドの健康面はとても不安定で、ビタミンの錠剤や抗生物質などの錠剤を常用していた。その量は、現在からすれば、身体に悪影響を及ぼす量であったという。
 
グールドは、レコードの売り上げには大変な関心があったが、金銭自体にはあまり興味が無く、収入は多くを友人、知り合いの行っている慈善団体などに寄付していた。
 
グールドは、文学青年であり、夏目漱石の「草枕」、トーマス・マンの「魔の山」は特にお気に入りで、前者は、ラジオ番組で自身が朗読したこともあったという。
 
ヴラジーミル・ホロヴィッツに対して、グールドは生涯、否定的あるいはライバル視していたようであり、ホロヴィッツの「ヒストリック・リターン」に対するあてつけのラジオ番組「ヒステリック・リターン」を制作したほどである。この両者は、最後まで親交を持つことはなかったと言われている。ただ、グールドの訃報に際し、最初に届いた弔電の一つは、ホロヴィッツからのものであったという。


Glenn Gould plays Bach


Glenn Gould - Bach Partita No.6 (1 of 3)


Glenn Gould: The Alchemist - The Retreat (1 of 6)


Glenn Gould: The Alchemist - The Retreat (2 of 6)


Glenn Gould: The Alchemist - The Retreat (3 of 6)


Glenn Gould: The Alchemist - The Retreat (4 of 6)


Glenn Gould: The Alchemist - The Retreat (5 of 6)


Glenn Gould: The Alchemist - The Retreat (6 of 6)


Beethoven - Bagatelle No.3 Op.126


Glenn Gould - Beethoven's "Emperor" Concerto 1/4

Glenn Gould - Beethoven's "Emperor" Concerto 2/4


Glenn Gould - Beethoven's "Emperor" Concerto 3/4


Glenn Gould - Beethoven's "Emperor" Concerto 4/4


Gould plays Mozart

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